プラスアクト

インタビュー

小橋賢児   (こはし・けんじ)

8歳から子役として活躍、その後話題のドラマ『人間・失格』『青の時代』『ちゅらさん』や、映画『スワロウテイル』『あずみ』などに出演するも、2007年に芸能活動を休止した小橋賢児。活動再開後の初仕事は、ドキュメンタリー映画『DON’T STOP!』で自身初となる映画監督だ。26歳の時に交通事故に遭い、下半身と左腕が動かなくなり車イスの生活を送る46歳の男、通称CAP。CAPが長年抱いていた、アメリカのルート66をハーレーで走るという夢を叶えるために、作家、経営者として活動する自由人・高橋歩とその仲間達、CAPの70代の母親と20代の娘など、このようなきっかけがなければ全く接点を持つことのない男女11人の旅を記録した。

撮影/吉田将史 文/今津三奈

プロフィール 小橋賢児(こはし・けんじ)


1979年8月19日、東京都出身。8歳の時に自ら送ったハガキがきっかけで芸能界デビュー。ドラマ『人間・失格』、『ちゅらさん』シリーズ、『若葉のころ』、映画『スワロウテイル』『あずみ』など数々の作品で活躍。07年、芸能活動を突如休止してアメリカへ留学。10年にドキュメンタリー映画『DON'T STOP!』の製作に取りかかり、帰国後半年の編集作業を経て完成。11年にSKIPシティ国際Dシネマ映画祭2011にてSKIPシティアワードを受賞、同時にSKIPシティDシネマプロジェクト第2弾支援対象作品に選出された。

――『DON’T STOP!』を2回拝見しました。

「いつご覧になりましたか?」


――1回目は昨年行なわれた試写会でした。

「一番音が悪い時じゃないですか」


――そのお話を宣伝担当の方からお聞きしました。『あの時観た方はぜひもう一度観てほしい』と監督がおっしゃっていると。

「音があまりよくなかったとマネージャーから聞いて。なので、ちゃんとした音で観て頂きたくて、もう一度観てほしいとお願いしました」


――アメリカの青春映画のようなワクワクするオープニング映像でした。体に障害がある方との旅なので、違うトーンを想像しましたのですが、そんな勝手な先入観を払拭するポップなものでした。

「元々映画監督になりたいとか、ドキュメンタリー映画を作りたいと思っていた訳ではなく、自分が映画にしたいと思ったものが、ドキュメンタリーだっただけなんです。とは言え、初めてのことなのでまずは色んなドキュメンタリーを観ました。研究していく中で、海外は9.11以降、色んな形でのドキュメンタリーがあるんですが、日本はエンターテインメント的なものが薄く、教育的で、説教を受けている気がしたんです」


――確かに、一般的なドキュメンタリーはトーンが落ち着いてますね。

「それを違う形で観せられないかなと思って。題材はCAPさんという障害者が旅に行く話ですが、僕は障害者の方に焦点を当てたかった訳ではなく、どんな人にも自分の中にある障害を言い訳にして可能性に蓋をしていると感じていたんです。言い訳はお金だったり、社会だったり、色んなものを理由にしている。それと彼が重なりました。だから、障害の人が頑張ってアメリカに行くような、そういう旅の物語というイメージは全くなくて」


――高橋さんからCAPさんと旅話を聞いた時、その場でドキュメンタリーを撮らせてほしいと直談判したそうですね。

「本当に直観で。聞いた瞬間、これを人に伝えなきゃと思いました。僕は8歳の時から芸能界に入り、20代半ばに凄く忙しい時期があって。今思えば言い訳なんですが、自分の心がNOと言っていても、周りに『こういうもんだ、我慢しなさい』と言われると、自分に言い訳をしてごまかしながら生きてたんです。それを続けるうちに、次第にどこかで苦しいという気持ちもNOと思うことすらも忘れようとしていて。頭で意識してやっていた訳じゃないんですけど、不感症みたいな自分がいました。周りから『今、テレビとか出ていて凄いね』『最近活躍しているね』と言われれば言われる程、本当の自分の想いでやっていないから気持ちが遠ざかり、どんどん自分が死んでいったんです。でも、漠然と“男は30から”と思っていた20代半ばごろ、このまま自分に嘘をつき、しがみついたまま30代を迎えたことを想像した時、それなりのポジションと生活はあっても、“それって自分なの? それって僕じゃないじゃん”と思ったんです。それがきっかけで少しずつ遊ぶ友達や遊ぶ場所を変えていきました。環境を変えていく中でたくさん発見があって、“なんで僕はこれらのことを無視して生きていたんだろう”と感じました。そして26歳の時にひとりでネパールに行った時に決定的な場面に出くわすんです。現地で出会った同い年のネパール人の男の子は、娘を学校に行かせるお金がないほど貧しいけど、かわいい奥さんと子供と一緒に小さな家に住んでいて、家に招待してごちそうしてくれました。僕が片言の英語で、『夕日を見るのが好きなんだ』と言ったら、バイクで丘の上に連れて行ってくれてね。そしたらちょっとくさい話ですが、彼の背中が人間として大きく感じて突然号泣しちゃったんです。その時に自分が大切にしていた価値観、守ろうとしていたこと、例えば芸能界のポジションなどが小さいことに思えてきて、人間力というか、そういうことのほうが大事だなと思ったんです。かといって、いきなり芸能界を休業するのは難しくて1年くらいかかりました。世の中から見たら突然休業した、突然いなくなったみたいな感じだったと思いますけど」


――その休業がきっかけで留学されたんですか。

「本当は何が好きなのか…。そのためにはもっと世界を見なくちゃと思って。まずは英語を学ぼうとアメリカに留学しました。全く一言も喋れなかった僕が行く時に決めたふたつのことがあるんですけど、ひとつはアメリカ人の友達を作って英語でケンカをすること、もうひとつはアメリカを横断すること。冬のボストンに行ってまずはがむしゃらに勉強をして、友達をみつけて、アメリカも横断して。その時に英語でケンカをしたので目標はクリアしました。そのあとに南米、アジアなど色んなところを旅していく中で、自分の感じたリアルを伝えたいと思うようになって。最初は旅先の映像を2時間くらいに編集して友達に早送りで見せたりしてたんですが、ある時、他人の結婚式のビデオを見せてるみたいで、ある時、それほどつまらないものはないなと気づいて(笑)。ガラリと変えて3~5分の尺に音楽をつけて友達にプレゼントしたら、それが結構いいねと好評で。ひょんなことから、ファッションブランドのPVとか撮らせてもらえる機会もありました。とはいえ、それを仕事にする訳ではなく、新しいことにチャレンジすることが感情のリハビリだったんです。仕事はしていなかったから、次第に蓄えもなくなり、20代最後は一文無しに…。もう、嫌なことが全部続いて、肝臓も壊して倒れて1カ月くらい動けなくなって、全てを失ったような感じになりました。その時、このまま30代を迎えたら、病気を言い訳に“だからダメでもいいじゃん”みたいになっちゃうと思って。そしたら休業する前と一緒じゃんと。それで知り合いのトレーナーに相談して、30歳の誕生日を目標に一気に病気を治そうと自然療法を取り入れて。3カ月で治しました。そうして少しずつ精神を建て直していく中で、高橋歩君に会ったんです。歩君のトークショーを聞きに行ったら、『俺が若い時、夢があると言ったら大人はその理由を聞きたがり、理由をつけたがった』と言ってて。でも、『夢に理由はない、ただワクワクしただけだ!』みたいなことを言っていて、そのシンプルな言葉が凄く響きました。その夜に歩君と飲み会の席で会って、『今度さ、車椅子に乗るオヤジとルート66を旅するんだけど…』って話を聞いたら、僕の脳みそがスパークしちゃって、思わず『映画を撮らせて下さい!』と言ったのが始まりなんです。話が長くなっちゃってすみません(笑)」


――数年に及ぶ濃い出来事をコンパクトに話して頂きありがとうございます(笑)

「映画を撮らせてと言ったものの、映画を作ったこともないし(笑)。ただ、僕が料理人だったら、直感で感じたものを料理にしてみようとか、作家だったら、本にしてみたいと思っただろうけど、旅をしながら映像を撮り、編集をしていた経験があるから『映画を撮らせて下さい』と言ったんだと思います。そこから映画を作るまでは旅だったんですけどね。でも出来ない理由なんていくらでもあるんです。作ったことがない、資金力ないとか、編集は出来ても長編は作ったことがないとか。でも最初の直感のほうが大事だから、とにかく、その直感を信じようと」


――旅には監督として同行した訳ですが、ドキュメンタリーだから台本がある訳ではありません。事前の準備はどんなことをしたのでしょうか。

「最初は、高橋歩君とその仲間達とCAPさんの旅で、男同志のかっこいい旅、青春ぽい感じがして、それが映画になるのか不安になっていたんです。でも旅が近づいてきたら、CAPさんの70代のお母さんと、その幼馴染みの方や、20代の娘さんたちも来るよと。聞いた時は『えーー!?』って感じでした。そんなメンバーじゃ不安になるじゃないですか。それこそ、映画に出来ない理由がいっぱいある。メンバーは全員知り合いではなく、初めて現地のアメリカで会う人ばかり。10日間の旅だと、日本人だと気を使いあって『いい旅だったねー』って感じで本当の自分を出せずに終わってしまう。そんな想像がつくじゃないですか。僕はそれまでの旅で、色んなハプニングが起きるからこそ、軌跡が起きると知っていました。このままでは絶対に映画にならないと思って、1カ月前から北海道のCAPさんの家に住み込みをして。CAPさんや家族の方と一番近くで心を通わせたい、色んなことを知りたいと思って。その時の映像を使う、使わないは別として、見えないところの時間軸をどう埋めるかが大事だと感じたんです。1カ月住んでわかったことは、CAPさんは夢も情熱もあるのに、『僕は車椅子だから行かなくてもいいんだ』という、障害を言い訳にして自分の夢や可能性を諦めようとしていた。それが以前の自分や世の中の多く人達が持っている、可能性に蓋をしたり、言い訳することと繋がりました」


――では、この作品は“言い訳はしない”“可能性に蓋をしない”ということをテーマに撮り始めたのでしょうか。

「そういうことよりも、起きていく中でのハプニングを自分の中で楽しもうというのがあったし、絶対に色んなことが起きるという直感がありました。自分自身がしたひとり旅でも、必ず何かが起きる。そのリアルは伝えるべきだし、それは僕にしか撮れないと思ったんです。多分…ですが、テレビ局でドキュメンタリーをやってる方やドキュメンタリー監督の方が、この題材を面白そうだと思ってもおそらく何も起きないと思っていて。僕が旅好きで、旅で経験したものがあるからこの作品を撮れる。傍から見たら10日間の旅を映画にしようだなんて、無謀だと思うはずです。だって、撮れなかったらどうするの? って。でも、そこは絶対に撮れる自信がありました」


――随分前、アイドル雑誌に「3週間モロッコ、ロンドンへ行ってきました」という記事が掲載されていた記憶があります。そのころ3週間もひとり旅に出るアイドルは珍しかったですよね。

「それが、先程お話した遊ぶ友達や遊ぶ場所を少しずつ変えていった時期。それまではサーフィンをやっていたので海に行くことが多かったけど、目的が海だけになっちゃうので、いつも同じなんです。それよりも、今回の『DON’T STOP!』じゃないですけど、入口と出口だけ決まっていて、どこに行くかも決めていないからこそ起きるハプニングとか、出会いが楽しくて内陸に目が向くようになりました」


――人が好きなんですか?

「それまで閉じていたので、その反動だと思います。自分の中で新しい経験でした。自分にはない価値観に触れて、そういう経験をどんどんしたかったんだと思う」


――映画は、よくもこんなに10日間の間で色んなことが起きるなと思う内容でしたが、泣く泣くカットしたエピソードはありましたか?

「実を言うと、車はもっと壊れているんです。最後、サンフランシスコに着く時は、ウィンカーもバックライトも壊れていたし、ブレーキの調子が悪くて結構壊れていました。でもそれは描けなかったし、そこで急にナレーションは入れたくなかった。あと、撮影車もパンクしたんですよ。ありえないでしょ!?(笑)。このままだと死んじゃうから、冗談でも“トラブル大歓迎って”言うのは止めようと言いました。映画どころじゃなくなっちゃいますから」


――そういう時でも常にカメラを回し続けていたんですね。

「もちろんです。僕は何が起きてもいつでも撮れるように、みなさんのモーターホームの中に泊まってました。みんなが寝静まり、CAPさんがラスト1本のたばこを吸い終わるのを確認してから寝て、みんなが起きる前に起きて撮ってるというのが10日間。僕のベッドはありませんから、みんなが泥だらけで戻って来た床に寝袋で寝てました」


――寝ている間にシクシクと泣き声や話し声が聞こえたら、すぐに起きてカメラを回わす訳ですね。

「そうです。だから、ほとんど寝ていません。この映画は10日間が人生の縮図のでもあります。諦めなければ必ずいいところに辿りつけし、腐らなければ新しい景色、出会い、感覚を知ることが出来る。それを教えられるような旅でした。もちろん旅のあとの編集中も同じでした。ケンカのシーンだけでも3~4時間あるんですが、編集次第では一方的に責めているように見えちゃいます。僕が絶対にしたくなかったのは、ケンカをしたことで誰かがひとりだけ最悪に見えたりしたらそれは凄く嫌だなと。実際、カメラマンの彼や娘さんは、実際にどういう風に切り取られるかわからないから不安になって、『あのシーンをそのまま使われるのは心外です』と話がありました。その時は一緒に飲みに行って、『決して変な扱いをするつもりはないし、もし一方的にあなたが最悪に見えたり、そういう作り方をしたらこの映画は駄作になります。僕を信じて下さいと』と言いました。結果的に『よかったです』と納得して頂けましたけど」


――監督をされる前、バーニングマン(アメリカ北西部の砂漠で年に一度開催。参加者はここで出会った人々と共同生活をしながら自由に表現活動を行なう)に参加されていたそうですね。どんな表現をされていたんですか?

「何度か参加しているんですが、一番最初に行った時は、何もわからないまま参加しました。普通の格好をしていると目立つぐらいみんなが派手なんです。ひとりでロスから自転車で来たヤツや、60年代のヘイト&アシュバリーのヒッピーカルチャーからITの業界で成功したお金持ちの人など色々。あそこに行ったら売買は一切禁止で、どんな境遇であろうとその中にいること自体が表現でした。2回目に行った時、僕は凄い衣裳を作って行きましたが、作ること、音楽を鳴らすことだけが表現ではなく、それを楽しむことすらもひとつの表現者の中であるということ。僕の友達がテトリスのオーナーなので、巨大なテトリスを建てるのを手伝ったりしましたけど、それを楽しむことも表現でした。そこでただの観客になっちゃダメだというのはあって、ギブ&ギブの精神を持ち、そういう哲学をなぞることも表現なんだなと。テイクだけを求めていては、バーニングマンに参加する意義はないんです」


――小橋さんの人生そのものがこの作品のタイトルに合っているように感じますが、諦めない心を持ち続けられる原動力はありますか?

「今回は自分の中で凄いハードルを上げちゃって。今まで長編の編集をしたこともないのに、3カ月で編集を仕上げると最初は約束してしまったんです。でも3カ月直前に全く客観的に観られなくなって。このままでは映画が作れない状況になったので、プロデューサーに『すみません、1回リセットしたいんで、寺にこもりに行ってもいいですか?』って言ったんです。お寺では携帯など全て預けて1日15時間座るのを1週間続けて。毎日気づきもあるけど、もうダメなんじゃないかという真っ暗闇のトンネルに入っちゃう日もあって。でも不思議なのは、それでも最初の直感を信じて諦めずに粘っていると、ある日突然今まで何度も観ていたのに気づかなかった言葉などが、無意識にパパパパパパパパっと、誰かに動かされているように繋がるんです。パズルがハマるみたないな感じです。その奇跡の連続が続いて、最終的に出来上がったんです。結局あれから全部で6カ月かかりましたけど。諦めなければ必ずどんな人にでも作り上げることが出来る、途中で諦めてしまうから出来ないだけなんです。それは高橋歩君も言ってますが、“やり続ければ必ず成功する”と。今回の映画作りで強く感じました」


――昔、番組の企画で、100カ国の外国語を1カ月で覚える企画に挑戦されましたね。

「はいはい、やりましたね。あれね、2回やったんですよ」


――確かパーフェクトで記憶されてました。そのころから諦めない心があったように思います。

「(感慨深く)そうですね、やりましたね。結構、自分の中で追い込まれるとやるんだと思います。あの時は本当に無謀なことを言うなと思って、スタッフの人に、『プロデューサーとか、やったことあるんですか?』と聞いたら、『いや、ないけど、小橋君なら出来ると思って』と言われて。そんなことを言うならみんなで一緒にやりましょうよと言って、マネージャーもディレクターも一緒に始めたのに、途中でみんな『出来ない…』と言っていて。だけど、僕は本番の生放送でやらなきゃならないんです。僕ひとりだけがやらなきゃならないんです」


――とにかく、必死で覚えたんですか?

「必死でした。耳で聞いて、覚えて。がむしゃらに」


――その時に覚えた言葉は今でも覚えているものですか?

「多少は覚えています。スペイン語で“トイレはどこですか?”とか。今も役立ってます」


――今回、宣伝費はかけずに、自分達の力で宣伝しようとされてるそうですね。

「これも“お金がないからダメだった”と言い訳したくないからです。せっかく作ったんだから、色んな人に伝えたいし広めたい。もちろん、お金があれば凄く宣伝できますけど、無い中でどこまで自分達が出来るか、結果よりもプロセスに学べることがいっぱいあるじゃないですか。どうなるか全くわからないけど、このあと奇跡が起きるかもしれないし、どう広がるかは未知数です。出来ることをやろうと思ってます」


――この作品はいつの時代でも色褪せず、長く愛される作品になりそうですね。

「映画を作る前に直感的に思ったのは、一過性で流行るものではなく、人から人へ伝わっていく映画にしたいということでした。昨日、僕の友達が試写会を観に来てくれて、これまでは夜の飲み会でしか会ったことのなかった人が、『感動して泣いたよ。実は僕には体の弱い弟がいて、彼に観せたいと思った』と言ってくれてとても嬉しかった。そういう風に誰かに観せたい、プレゼントしたいと思ってもらえたら嬉しいです。震災から2週間後、高橋歩君達と民間ボランティア第1号になり、石巻に行くことが出来ました。その時にボランティアをやりながら思ったんですけど、誰かのためにやっていると、実は自分の喜びにもなっていくんですね。自分だけの喜びを追い求めても、辿りつけないものがそこにはあり、『DON’T STOP!』の旅でもそうですけど、車椅子のCAPや70代のお母さんがいたから、いつもなら簡単に登れる山も時間がかかる訳です。歩君達も言ってましたが、CAPと一緒に苦労して登ったからこそ見える景色は全然違うし、予定通りにいかないからこそ出会えた人や感覚があったんです。それはこれからも大切にしていきたいと思います」


『DON’T STOP!』

監督/小橋賢児
出演/高橋歩 CAP ほか
配給/ゴー・シネマ デジタルSKIPステーション

若いころヤンチャをしていた北海道在住の46歳の男・通称CAPは、26歳の時交通事故に遭い、下半身と左手が動かなくなった。以来、仲間との接触も避け、1日の大半をベッドの上で過ごす。そんなある日、作家・経営者など様々な分野で活躍する自由人・高橋歩がトークライブで北海道を訪れた。そのライブを見ていたCAPの母親が「息子に会ってやって下さい」と懇願。縁を感じた高橋はCAPの自宅を訪れる。そこには、幼いころからの夢を封印して生きるCAPの姿があった。夢を実現させようと、その場でアメリカR66横断の旅に出ようと誘う。すると、CAPの70代の母親とその幼馴染み、20代のふたりの娘、そして高橋の仲間も続々と集まり、テキサスからサンタモニカまでの10日間、4200キロの旅を11人で行くことになった。
9月8日(土)新宿武蔵野館、テアトル梅田ほか全国ロードショー
(C)2011『DON’T STOP!』製作委員会

2024年03月
12345678910111213141516171819202122232425262728293031
« »


アーカイブ


最近のインタビュー記事